鐘銘事件の真相——家康は本当に「言いがかり」をつけたのか

通説への疑問点
『京都・方広寺:豊臣家滅亡のきっかけになった巨鐘』では、京都・方広寺の大梵鐘そのものについて見てきました。ここでは、この鐘が引き起こした事件——慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件——の中身に踏み込みます。

教科書的な説明はこうです。徳川家康は豊臣家を滅ぼす口実が欲しかった。たまたま方広寺の鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の文字を見つけ、「家康の名を切り、豊臣を君として楽しむ呪いだ」と難癖をつけた。豊臣方の弁明は退けられ、大坂冬の陣・夏の陣を経て豊臣家は滅亡した——。
しかし、近年の歴史学者たちは、この通説に対してかなり厳しい修正を加えています。豊臣方にも相当の落ち度があった、家康は最初穏便に収めようとしていた、事件をこじらせたのは豊臣方の内部対立だった——。「家康陰謀説」では説明のつかない事実がいくつも見つかっています。

豊臣側の言い分——撰文者・文英清韓の弁明
銘文を撰した臨済僧、文英清韓(ぶんえい せいかん)は、家康に対して弁明書を提出しています。彼の主張を整理するとこうなります。
「国家安康」について——これは「隠し題(かくしだい)」という詩の技法で、家康様の御名を縁起良く詩の中に織り込んだものです。和歌や連歌の世界では、誰かの名前を詩句の中にひそかに詠み込むのは古来からあるめでたい修辞で、対象を尊重する意味を持ちます。家康様への祝意として用いたのであって、呪いの意図など微塵もありません。
清韓自身の弁明書(『摂戦実録』所収)にはこうあります。「(隠し題は)昔も今も縁語に引いて申し候こと多くござ候、すべて御名乗は賞翫の物なれば、かくのごとく申し候」——隠し題は古今を通じてよく用いられる技法で、相手の名を尊ぶ気持ちで詩の中に織り込んだのだ、と。
「右僕射源朝臣家康公」について——これは銘文の前文に出てくる、家康のフルネームを記した部分です。「右僕射(うぼくや)」とは、右大臣の中国風の呼び方。当時、秀頼も右大臣の位にあり、家康は前右大臣でした。両者を区別するため、家康様の方には唐名(中国風の呼称)を用いたのです。
しかも「右僕射」という官名には、めでたい故事があります。中国で皇子が誕生したとき、魔除けの矢を射る役職が「右僕射」と呼ばれていた——敵を滅ぼし、悪神を射払う、誠にめでたい職名なのです。だからこそ、家康様にこの唐名を当てたのだと。
清韓の論理はこうです。自分は徳川と豊臣双方の繁栄と平和を願って銘文を作った。隠し題、縁語、唐名といった漢詩・和歌の技法を駆使して華やかに祝意を表現した。それが裏目に出るとは思いもよらなかった——。
実際、銘文を読んでいくと、清韓の主張にはそれなりの説得力があります。「国家安康」「君臣豊楽」を含む祈願部分は、単独で読めば確かに祝意の言葉ですし、隠し題という技法自体も実在する修辞です。

徳川側の解釈——林羅山の断定
ところが、徳川方の儒学者・林羅山は、清韓とはまったく違う読み方をしました。羅山の鑑定書から原文を引いてみます。
「国家安康ト書申候、是ハ御諱(おんいみな)ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事」——国家安康と書いたのは、家康様の諱を犯すもので、無礼で不法極まりない。そのうえ諱の字の真ん中を切るとは、沙汰の限りである。
「君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ『豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム』トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事」——君臣豊楽と書いたのも、「豊臣を君として子孫の繁栄を楽しむ」と読む底意である。深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としたのだ。
そしてさらに——「右僕射源朝臣、是ハ『源ヲ射ル』トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事」——「右僕射源朝臣」というのも、「源(=源朝臣=家康)を射る」と読む底意があってこう書いたのだ。
清韓が「めでたい役職名」と説明した「右僕射」を、「僕射」の中の「射」の字に着目して「源を射る呪い」と読み替える。現代の歴史学者・呉座勇一は、この羅山の解釈を「さすがにこれは強引で、徳富蘇峰が『曲学世に阿る』と非難したのも無理はない」と評しています。五山の僧たちの答申は、羅山ほど断定的ではありませんでした。彼らも「家康様の諱を分けて書くのは前代未聞のことで、よろしくない」とは認めましたが、「呪詛」とまでは言わなかった。むしろ相国寺などは「武家のしきたりは知らないが、五山では諱を避ける慣習はない」と豊臣側を擁護する付記すらしています。
「呪詛」と断言したのは林羅山ただ一人。家康はそれを採用しました。

当時の常識——豊臣側に落ち度があった
ここまで読むと「やはり徳川側の言いがかりではないか」と感じる方が多いでしょう。私も最初はそう思いました。
しかし、近年の歴史学者たちが繰り返し指摘するのは、当時の感覚では、豊臣側にも相当の落ち度があったという点です。
当時の社会では、目上の人の本名(諱、いみな)を直接口にしたり文字に書いたりするのは、極めて失礼なこととされていました。家康のことは普段「内府(ないふ)」「大御所」など、官職や地位で呼ぶのが常識です。本名を文字にする場合でも、相手の許可を得るのが筋でした。いまでも「田中さん」とは言わず「社長さん」「田中社長」と呼ぶのと似ているかもしれません。
ところが清韓の銘文は、家康への許可なく、その諱を堂々と銘文に組み込んでいる。それも一箇所ではありません。「国家安康」で隠し題として組み込み、「右僕射源朝臣家康公」で前文に明記する。意図的に二度織り込んでいるのです。

家康は最初「銘文を削れ」と言っていた
ここからが、近年の研究で浮かび上がってきた、事件のもうひとつの顔です。
教科書的な説明では、家康は鐘銘を口実に最初から豊臣家を追い詰めるつもりだった、とされてきました。しかし、事件勃発当初の家康の対応は、意外なほど穏便だったことが、一次史料からわかってきています。
決め手になるのは、徳川側ブレーンの一人、金地院崇伝(以心崇伝)が残した日記『本光国師日記』です。崇伝は方広寺鐘銘事件の取り調べを担当した人物の一人で、京都所司代・板倉勝重に宛てた書状の写しがこの日記に収められています。
慶長19年8月22日条の書状にはこうあります。
「市殿(片桐且元)不届きの儀はこれあるまじきとの上意」——豊臣方の取り次ぎ役・片桐且元(かたぎり かつもと)に落ち度はない、というのが家康様のお考えである。
「文言以下の善悪、市存ぜられざることも、もっともとの御諚(ごじょう)」——銘文の良し悪しを且元が判断できなかったのも、もっともなことだ、との仰せである。
そして決定的な一文——「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」——鐘の銘文をすりつぶしてしまえばよい、というのが家康様の内意である。
つまり家康は当初、こう考えていたのです。
片桐且元には責任を問わない
問題の銘文は、鐘から削り取れば良い
鐘そのものを破棄する必要はない
さらに9月8日条の書状には、こうあります。「江戸様(徳川秀忠)と秀頼公、以来疎意なきように、江戸様へ御意を得られそうろうように」——秀忠様と秀頼公が今後疎遠にならないよう、秀忠様にお会いしてご了承を得られるように。「市殿も安堵」——片桐且元も安心している。
家康は、徳川秀忠と豊臣秀頼の大坂会見を構想していました。鐘銘問題を解決し、徳川・豊臣の関係を修復する道筋を、家康自身が示唆していた。
もし最初から豊臣家を滅ぼすつもりだったなら、「銘文を削れば良い」「秀忠と秀頼で会見しよう」などという譲歩案をなぜ提示するのか——この問いに、陰謀説は答えられないのです。

二重使者の悲劇——なぜ戦争になったのか
家康が穏便な解決を望んでいたのなら、なぜ事態は大坂冬の陣へと突き進んだのか。
ここに、豊臣方の内部混乱が決定的な役割を果たします。
弁明のため、豊臣方は二人の使者を駿府(家康の隠居先)に送りました。一人は片桐且元。豊臣家家老で、方広寺再建の奉行を務めた事業の中心人物です。もう一人は大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)。淀殿の乳母で、淀殿が最も信頼する女性でした。
ところが、二人が駿府で受けた対応は、まったく異なるものでした。
片桐且元の場合——家康に直接会えず、本多正純や崇伝ら徳川側ブレーンを通じて、厳しい三条件を突きつけられました。
淀殿を江戸に人質として送る
秀頼が江戸に参勤する
大坂城を退去して他国に移る
大蔵卿局の場合——家康と直接会見できました。家康は終始機嫌よく対応し、鐘銘の話は一切出ず、「秀頼は秀忠の娘婿でもあるので害心はない」と語ったといいます。
同じ駿府で、同じ豊臣方の使者が、まったく違う情報を持ち帰ったのです。
大坂城に戻った二人の報告を聞いて、淀殿はどう判断したか。淀殿は大蔵卿局の話を信じました。「家康様は機嫌よく、害心はないと仰せだった。それなのに且元は厳しい三条件を持ち帰った——これは且元が徳川と通じて、豊臣家を陥れようとしているのではないか」と。
且元は裏切り者として疑われ、命の危険を感じて大坂城を退去します。豊臣家の家老であり、徳川との折衝役として最も誠実に動いてきた人物が、最も疑われ、追放される——豊臣方は、自ら徳川との交渉ルートを断ってしまったのです。
且元退去の報を受けた家康は、これを反逆の意思表示と見なし、諸大名に出兵を命じました。慶長19年10月、大坂冬の陣が勃発します。

この二重使者の食い違いを、家康が意図的に仕掛けたのか、結果的にそうなったのかは諸説あります。家康側に大蔵卿局を「機嫌よく」迎えた政治的計算があったことは確かでしょう。しかし重要なのは、最終的に豊臣家を破滅に追い込んだのは、淀殿が且元の報告を信じず、且元を追放したという豊臣方内部の判断だったという点です。
清韓の銘文に始まる事件は、徳川方の追求と豊臣方の混乱が絡み合いながら、制御できない方向へと転がっていきました。
鐘は残った
事件の関係者のその後を追ってみます。
銘文を撰した文英清韓は、南禅寺を追われ、戦時中は大坂城に籠もりました。豊臣家滅亡後に捕らえられ、駿府で拘禁されたまま、元和7年(1621年)に没しています。
片桐且元は、大坂城を退去した後、徳川方として大坂の陣に参加しました。賤ヶ岳七本槍の一人として秀吉に仕え、秀頼の傅役(もりやく)として豊臣家を支え続けた古参の家臣が、最期は旧主を攻める側に立つ。豊臣家滅亡の20日後、且元は60歳で没しました。心労が重なっての死だったとも言われます。
豊臣家は秀頼・淀殿の自害をもって滅亡。豊臣秀吉を祀っていた豊国神社も、徳川幕府の命によって廃絶。秀吉の神号「豊国大明神」は剥奪され、「国泰院殿雲山俊龍大居士」という仏教戒名に変えられました。
しかし、すべての始まりとなった鐘——家康自身が「すりつぶせばよい」と言った鐘——は、銘文を削られることなく、現代まで残りました。
400年以上経った今も、京都・方広寺の鐘楼には、慶長19年4月16日に鋳造されたあの巨鐘が吊られています。問題の八文字は今も読めますし、銘文の最後には「奉行 片桐東市正豊臣且元」「前住東福後住南禅 文英叟清韓謹書」と、事件の当事者となった二人の名前も刻まれたまま残っています。
家康の言いがかりだったのか、豊臣方の落ち度だったのか——この単純な二項対立では、事件の全体像は捉えきれません。
豊臣方には確かに無神経な踏み込みがありました。徳川方には政治的な計算もありました。家康は最初穏便に収めようとし、しかし事態は二重使者の混乱を経て収拾不能な方向へ転がっていきました。誰か一人の悪意で説明できる事件ではなく、複数の落ち度と判断ミスと不運が絡み合った、いかにも歴史的な事件らしい事件——それが方広寺鐘銘事件の実像なのだと、調べていくうちに思うようになりました。
そんな事件の物言わぬ証人として、82トンの巨鐘は、今も同じ場所に吊られ続けています。

皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。
しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。
「お寺の鐘しらべ」では、梵鐘にまつわる文化や歴史を通して、鐘の魅力を発信しています。朝活やお仕事後のひとときに楽しめるプチ旅行の参考としてもご活用いただけます。
一緒に梵鐘を巡る旅に出かけましょう!



