水戸黄門の「助さん格さん」は実在した——『大日本史』を支えた二人
ご隠居・水戸光圀が、助さんと格さんを従えて諸国を漫遊し、行く先々で悪を懲らしめる——テレビでおなじみの『水戸黄門』。あの物語が史実ではない、という話は、よく知られています。

ですが、助さんと格さんには、ちゃんと実在のモデルがいます。 しかも二人は、ドラマよりもずっと面白い人生を歩んでいました。今回は、そのモデルとなった二人の人物をご紹介します。
助さんのモデル—佐々介三郎宗淳(さっさ すけさぶろう むねきよ)
ドラマで「助さん」と呼ばれる佐々木助三郎。そのモデルが、佐々介三郎宗淳です。「助三郎」という名前は、本人の通称「介三郎」をほんの少しもじったものでした。
もとはお坊さんでした。 15歳で京都の妙心寺に入り、僧として修行を積んでいます。ところが学ぶうちに仏教に疑問を抱くようになり、ひそかに『論語』を読んで儒学に傾倒していきました。そして34歳のとき、ついに還俗——僧をやめて俗世に戻ります。

そんな彼を見出したのが、水戸光圀でした。宗淳の詠んだ和歌を徳川光圀が賞し召抱えたと伝わります。和歌の才を気に入られて、水戸藩に仕えることになったわけです。
そして光圀のもとで、宗淳に与えられた大仕事が——全国を旅して、歴史史料を集めることでした。
光圀は当時、日本の正史を編む一大事業『大日本史』の編纂を進めていました。その史料を集めるため、宗淳は各地へと派遣されます。古い寺社をめぐり、古文書を調べ、時には古墳の調査まで行う。実在の「助さん」は、剣で悪人を斬る代わりに、筆と古文書を相手に全国を歩いていたのです。
格さんのモデル—安積覚兵衛澹泊(あさか かくべえ たんぱく)
一方、「格さん」こと渥美格之進のモデルは、安積覚兵衛澹泊です。こちらも「格之進」は、本人の通称「覚兵衛」から作られた名前でした。
宗淳より16歳年下の澹泊は、明から日本へ亡命してきた大学者・朱舜水(しゅしゅんすい)の直弟子でした。師の朱舜水は、彼の理解力をこう評したと伝わります——日本に来て教えた者は多いが、よく暗記し理解したのは彼だけだ、と。光圀がその才を認め、彰考館(『大日本史』の編纂所)の中心人物として登用しました。

宗淳が「動」の人——全国を駆けめぐる調査員だったとすれば、澹泊は「静」の人。主に水戸や江戸にあって、集められた史料をもとに『大日本史』の文章、とりわけ各時代の人物評を記す「論賛」を担いました。趣味は菊づくり、おだやかな性格だったと伝わります。剛胆で酒好きだった宗淳とは、好対照の二人でした。
宗淳が亡くなったあと、その墓碑に刻む文章を書いたのは澹泊でした。そこで澹泊は、年上の友をこう評しています——おおらかで正直、細かいことにこだわらず、よく酒を飲む人物だった、と。ドラマの相棒コンビは、史実でも確かに、心を通わせた友どうしだったのです。

助さんと格さんは、悪代官をこらしめた剣の達人ではありませんでした。けれども二人は、筆と学問で、後の日本の歴史を動かす思想の礎を築いた——いわば、もっとスケールの大きな「世直し」をしていたのかもしれません。
同じ水戸が生んだ、もうひとつの興味深い遺物があります。藩校・弘道館に残る「学生警鐘」——全国に二つだけの、かな文字を刻んだ珍しい梵鐘です。よろしければ、こちらもどうぞ。
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