梵鐘単体の評価
京都・泉涌寺:皇室の御寺に伝わる楊貴妃伝説
鎌倉時代に四条天皇の葬儀が行われて以降、天皇家の霊を祀る「御寺(みてら)」と呼ばれてきました。現在、宮内庁によって管理されている月輪陵には14人の天皇を含む25陵が集中しており、日本有数のパワースポットとされています。
泉涌寺の境内と隣接する月輪陵
楊貴妃伝説が伝わるお寺
楊貴妃観音像が安置されているお堂
泉涌寺には鎌倉時代の1230年、中国・南宋からもたらされた楊貴妃観音像があります。この木像は、唐の皇帝・玄宗が楊貴妃の面影を残すために作らせたと言われており、伝説的な美しさを今に伝えています。
楊貴妃の出世と悲劇的な最期
楊貴妃は貧しい家庭に生まれながらも、その美貌で唐の皇帝・玄宗に見初められました。当時19歳の楊貴妃を側室に迎えた玄宗は、55歳の皇帝として長年安定した政治を行ってきました。しかし、楊貴妃の親族が権力を持ち始めると政情が不安定になり、755年には反乱が勃発し、翌年には首都・長安が陥落。玄宗は都を捨てて逃れる途中の馬嵬という場所で、兵士たちからの圧力で楊貴妃を処刑せざるを得ませんでした。
見立玄宗皇帝・楊貴妃 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
しかし、この「楊貴妃処刑」に疑念を抱く声は少なくありません。楊貴妃の遺体を確認したのは高力士と陳玄礼のみであり、彼らが死を偽装し、秘密裏に逃亡させた可能性がささやかれています。
梵鐘しらべ
時間 | 朝9時 |
打数 | ー |
前捨て鐘 | ー |
実質 | ー |
後捨て鐘 | ー |
霊明殿に祀られている歴代天皇の位牌について
泉涌寺の霊明殿には、歴代天皇の位牌が祀られています。現在は表現が改められていますが、かつてのウェブサイトでは以下のように説明されていました。
「平安京の第一代桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇。この三天皇が霊明殿に奉祀された中でも特に古い御方であり、その後歴代の天皇が奉祀されている。」
要するに、38代天智天皇、49代光仁天皇、50代桓武天皇以降の天皇を祀っているということです。しかし、この記述では、39代天武天皇から48代称徳天皇が抜け落ちているかのように読めます。
歴史ファンの間では、38代天智天皇(兄)と39代天武天皇(弟)が実の兄弟ではなく、天智系と天武系が異なる一族である可能性が指摘されています。この説には、以下のような背景があります。
・天智天皇の崩御後、天武天皇が挙兵して天智天皇の皇太子である大友皇子を死に追いやったこと。
・天武天皇の年齢が、一部の文書で天智天皇より年上と記されていること。
・天武天皇は生年月日が不明で、新羅からの渡来人であったとの説があること。
泉涌寺は皇室の菩提寺として特別な存在です。そのため、泉涌寺が皇室に関する何らかの情報を把握しており、39代天武天皇から48代称徳天皇までの系統を意図的に除外しているような表現になっているのでは、というウワサがあります。
梵鐘ものがたり
寛文八年(1668年)の銘がある梵鐘
亡命計画を支えた二人の日本人
この逃亡劇の中心人物として注目されるのが、遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂です。彼は唐の政府で秘書監という役職に就き、従三品という高官にまで出世していました。当時、中央政府の情報管理責任者として、いわば現代の中央情報局(CIA)の長官に匹敵するポジションだったとも言えます。仲麻呂は楊貴妃を密かに日本へ逃がす計画を練っていた可能性があります。
阿倍仲麻呂( 国立国会図書館デジタルコレクション 10.11501/1306326)
馬嵬での状況を考えると、仲麻呂が考案した脱出ルートはこんな感じだと思います。まず黄河を下って上海へ送り、その後、船で九州の大宰府へ向かうのが最善策でしょう。当時、大宰府の長官を務めていたのは吉備真備。仲麻呂とは同じ船で唐に渡り、共に学んだ仲間でした。この仲麻呂と真備のパイプを活用すれば、一見無謀に思える楊貴妃の亡命計画が実現可能に見えてきます。
唐 | 阿倍仲麻呂 | 吉備真備 | |
680年代 | 684年 高力士 誕生 685年 玄宗 誕生 | ||
690年代 | 698年 誕生 | 695年 誕生 | |
700年代 | 高力士は皇太子時代から仕える | ||
710年代 | 712年 玄宗皇帝になる 719年 楊貴妃 誕生 | 717年 遣唐使として唐へ | 717年 遣唐使として唐へ |
720年代 | |||
730年代 | 734年 帰国 | ||
740年代 | 745年 玄宗の貴妃になる | ||
750年代 | 755年11月 反乱起こる 756年6月 長安陥落 (楊貴妃死亡) | 753年 帰国に失敗しベトナムへ 754年 長安へ戻る? | 752年 遣唐使として唐へ 753年 鑑真と帰国 754年 大宰府長官 |
山口県に伝わる伝説
山口県油谷湾に楊貴妃が漂着したという伝説があります。地元の二尊院には、756年7月に唐渡口という場所に小舟が漂着したとの記録が残されています。小舟に乗っていた女性は衰弱しており、村人の救護の甲斐なく亡くなりました。村ではその女性が楊貴妃だったのではないかと語り継がれてきました。
山口県二尊院の楊貴妃像
伝説は謎のまま
楊貴妃が日本に亡命したという話は正史には記されていませんが、その可能性を示唆する記録や伝説がいくつか存在しています。彼女の死後、中国の詩人白居易が著した「長恨歌」において、楊貴妃の魂が遠くの島に眠っているとされている点です。この「島」が日本を指しているのではと言われています。楊貴妃の霊を弔うために玄宗が送ったとされる仏像が山口と京都に現存しています。
長恨歌傳 国立国会図書館デジタルコレクション
このように、楊貴妃伝説は中国・日本双方にまたがる壮大な物語として、今なお語り継がれています。しかし、阿倍仲麻呂の足跡については詳細な記録がある一方で、長安陥落前後の動向が不明であるなど、全てが解明されたわけではありません。伝説の真相を解き明かす余地は、今も残されています。
アクセス
住所
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
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お寺の鐘しらべ管理人
- 東京在住のサラリーマン
- 梵鐘の愛好家
- 出張先や夜時間に梵活中
皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。
しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。
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