榮山寺の梵鐘と菅原道真の秘密に迫る

奈良県五條市の榮山寺に伝わる梵鐘は、極めて美しい鐘銘文を持つことで知られその文化的価値から国宝に指定されています。藤原道明と橘澄清が協力して『道澄寺』を建立し、藤原道明が梵鐘を作るよう命令して、素晴らしい傑作が誕生したことが銘文に刻まれています。ところでこの鐘の銘文はそもそも菅原道真が作ったのではないか、という伝説が昔から存在します。このコラムでは伝説の真相に迫ってみたいと思います。

銘文の評価が高い神護寺と榮山寺の梵鐘

ふたつの鐘は平安時代に作られたものでともに国宝に指定されています。神護寺の梵鐘は875年に藤原敏行が文字を書き、序詞(じょことば)を橘広相、本文を菅原是善が担当しました。当時の著名な3名の文学者が揃ったことから「三絶の鐘」と呼ばれ、おそらく完成した当時から特別な工芸品として認められていたと思われます。

山城国高雄山神護寺鐘銘拓本(東京国立博物館P-3175)

ここから約50年が経った917年に榮山寺の鐘が完成します。これは藤原家と橘家が担当しましたが、菅原が抜けています。

藤原南家橘家菅原家
神護寺(875年)藤原敏行橘広相菅原是善
榮山寺(917年)藤原道明橘澄清

藤原道明と橘澄清が梵鐘を作ろうとした考えた時、50年前に作られた神護寺の鐘は当然知っていたでしょうし、参考にするはずです。敏行と道明は藤原南家の一族ですが朝廷の中で異例ともいえる昇進を果たした人物でした。藤原家なのだから自動的にある程度は出世しそうなイメージを持ってしまいがちですが、藤原家には北家・南家・京家・式家があり政治を司るリーダー格が北家で、他は学問や芸術などそれぞれ得意分野があり、南家はあまり目立たない存在でした。道長・頼道も北家です。橘広相と橘澄清は親子ではありませんが橘家の人間として20歳くらいの差なのでお互い知った間柄でした。そして?の部分に菅原道真があてはまるのでは?ということです。菅原是善と道真は実の親子で二代続けて著名な政治家であり文学者でした。

藤原・橘・菅原による梵鐘プランと一大事件

菅原道真(ARC浮世絵・日本絵画ポータルデータベースMM0644_05)

榮山寺の梵鐘に名前が残る藤原道明と橘澄清が梵鐘計画を進める上で菅原道真を外すという合理的な理由がありません。おそらく菅原道真を含めた3名で計画が進められていたでしょう。もしかしたら一番年上の道真がリーダーだったかもしれません。ただし道真がメンバーだったという歴史は、道真が生きていた時代に限定されます。梵鐘が完成する16年前、901年に想定外の一大事件が起こります。菅原家としてありえない出世を遂げた右大臣・道真が大宰府に左遷されます。これは藤原北家出身の左大臣・藤原時平の陰謀だったといわれています。その真偽はさておき、降格された道真は失意のうちに903年大宰府で罪人として亡くなりました。このような状況ですから、罪人・菅原道真の名前を梵鐘に入れることなど到底できなくなりました。道真が亡くなってから14年後に完成した梵鐘には、藤原道明と橘澄清の名前だけが刻まれて、道真が関わっていたことは歴史の闇に葬られました。

菅原道真を放置できない怨霊事件が続出

菅原道真は罪人だから梵鐘から名前を外す。無実の罪を着せられた道真にはかわいそうですが、これで収まれば藤原家としてはOKだったはずです。しかし道真が亡くなった直後からとんでもない事件が続出します。6年後に首謀者だった藤原時平と藤原菅根が相次いで亡くなりました。時平は39歳という若さでした。彼らは菅原道真の怨霊によって死んだというウワサがまことしやかに流れ、とはいえ罪人扱いなので表立って梵鐘に名前を入れることもできないという状況でした。しかし道真をスルーしてしまうと更なる怨霊事件が起こるかもしれません。そこで関係者は銘文の中にこんな言葉を入れました。

「現世結契閣之情亦欲浄刹共養之」(現世では長い間会えないけれど、お寺では安らかに楽しくすることを願う)

安楽の文字が読み取れる榮山寺の梵鐘

梵鐘が作られた時、道真は「安楽寺」というお寺に埋葬されていました。表向きは普通の銘文でありながら、巧みに「安」と「楽」の文字を入れて道真の冥福を祈っています。道真ほど頭のいい人物であればこの意味に気づいてくれて、怒りを鎮めてくれることをひたすら期待していたことでしょう。

まだまだ怒り続ける菅原道真

しかし道真の怒りはこんなことでは収まりませんでした。それどころか更にエスカレートしていきます。923年、藤原時平の甥で皇太子の保明親王がわずか20歳で亡くなります。朝廷はたまらず菅原道真の降格を撤回し、右大臣の地位を贈ります。つまり道真の無罪を公式に認めたということです。しかし、その2年後にはまた皇太子の慶頼王が5歳で亡くなります。さらに5年後には醍醐天皇がいる清涼殿で会議中に落雷があり藤原清貴ら数名が亡くなりました。天皇がいる御殿で人が亡くなるということは当時としては絶対に起きてはいけないことでした。現代の我々から見れば単なる偶然の不幸が重なっただけですが、当時は怨霊と化した道真の恐怖が支配する世の中だったことでしょう。

中殿御会図(模本)(東京国立博物館A-1606)

藤原家による怨霊対策と道真の鎮魂

このまま道真のタタリか続いてしまえば、藤原家としては一族の繁栄どころか個人の生存すらおぼつかなくなります。道真の無罪を認めるだけでは不十分で、さらに藤原家の誤りを認める姿勢を神に示さなければならない状況にまで追い込まれます。朝廷は947年に京都で神宮寺を建てて道真を祀り、藤原道長の時代になると北野天満宮に改め宗教的な神と位置づけました。更に993年には道真を太政大臣に追贈し、政治的にもトップの地位を与え、怒りを鎮めることになりました。藤原道長はこのとき大納言で、太政大臣にはここから30年近くかかります。道真が九州で亡くなってからちょうど90年目のことでした。

北野天神縁起 北野天満宮本模写(奈良国立博物館25-0)

このように菅原道真を中心とした当時の社会事情を考えると、榮山寺の梵鐘は怨霊道真が登場し始めた微妙な時代でした。道真の怒りはどうにかして鎮めたい。しかし謝罪してしまえば、藤原家の過ちを世間にも認めたことになってしまう。そんなジレンマの中で朝廷は、生前の道真が関わっていた梵鐘プランを知ることになったのでしょう。道真の遺志を継いで梵鐘をりっぱに完成させて『安楽』という暗号で道真の貢献を梵鐘に記録すれば、鎮魂してくれるかもしれないという狙いだったのだと思います。

お寺の鐘しらべ管理人

  • 東京在住のサラリーマン
  • 梵鐘の愛好家
  • 出張先や夜時間に梵活中

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