目黒・祐天寺:徳川将軍の物語-家族の絆と伝説を繋ぐ鐘音(区指定有形文化財)

東急東横線の中目黒駅の隣に位置する祐天寺駅。ここから商店街を10分ほど歩くと、江戸時代初期に祐天という高僧の廟所として弟子の祐海が建てた祐天寺が見えてきます。このお寺には1728年に作られた梵鐘があります。今回は梵鐘の文化財としての魅力とその背景にあるサイドストーリーをご紹介します。

仁王門は綱吉の娘・竹姫から寄進された

静かなる革命家、徳川家宣(いえのぶ)

六代将軍徳川家宣は、48歳で将軍に就任し「生類憐れみの令」を撤廃するなど改革に取り組みましたが、わずか3年後の51歳で亡くなりました。家宣は目立たない存在ですが、正徳の治という政治改革を断行し、名君として慕われた将軍と言われています。家宣の正室、天英院は、夫の17回忌に梵鐘を祐天寺に寄進します。家宣は生前祐天に帰依していてゆかりの地として選ばれたと考えられます。そのサイズは徳川家の菩提寺である寛永寺と同じ三尺三寸(約1メートル)とされました。

子供老人病人も保護の対象とされた。家宣は人への保護政策はそのまま継続した。

梵鐘しらべ

時間6時、11時45分
打数17打
前捨て鐘3打
実質12打(朝は6打)
後捨て鐘2打

鬼滅の刃に登場した累のモデル物語

祐天寺の舎利殿正面には、大きな絵馬があります。この大絵馬は、累伝説を題材にしています。

茨城県には累ヶ淵という地名が残っていて、この地では累という名の怨霊が次々と人を呪い殺す事件がありました。僧侶の祐天は、この怨霊を除霊して事件を解決しました。

この物語は江戸時代に大きな話題となり、歌舞伎、文楽、落語など様々な作品に取り上げられました。現代の作品にも扱われていて「鬼滅の刃」にも登場します。炭治郎と那多蜘蛛山で戦った下弦の鬼「累」のモデルとも言われています。

梵鐘ものがたり

1729年に正室の天英院から寄進された

今でも現役の貴重な時の鐘

当時のままの鐘楼は国の登録有形文化財

1729年3月20日、祐天寺の境内に鐘を鋳造する工場が設けられ、早朝から作業が開始されました。完成した梵鐘は4月14日に祐海によって最初に三度打たれ、その鐘の音は江戸城西の丸の天英院にも届いたと言われています。この鐘の音が江戸城に届くのは現実的には難しいですが、増上寺が天英院に気を使って鐘を打っていたのかもしれません。その14年後、家宣の27回忌からは時の鐘として江戸市民に時間を告げる役割を担い、現在も朝6時と正午に打鐘され続けています。

組織のリーダーにふさわしいバランス感覚

鐘楼にも徳川家の葵紋があしらわれている

この梵鐘には、徳川家の葵紋と天英院の実家近衛家の牡丹紋があしらわれ、二人の絆を象徴しています。徳川将軍家には増上寺と寛永寺という二つの菩提寺がありますが、四代家綱、五代綱吉が連続して寛永寺に祀られたため、そのバランスを取るよう自身は増上寺に祀るよう遺言したそうです。梵鐘のサイズは寛永寺に合わせられました。増上寺の梵鐘は権威の象徴として関東一のサイズを誇っていました。おそらく増上寺の権威と寛永寺の格を損なわないように配慮したサイズなのだと思います。

アクセス

住所

東京都目黒区中目黒5丁目24−53

ホームページ

http://www.yutenji.or.jp/

お寺の鐘しらべ管理人

  • 東京在住のサラリーマン
  • 梵鐘の愛好家
  • 出張先や夜時間に梵活中

皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。

しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。

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