夕暮れの法隆寺 ― 『柿食えば鐘が鳴るなり』の舞台を探る

明治時代の俳人、正岡子規が詠んだ俳句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。知らない人はおそらくいないでしょう。昼間は多くの人で賑わっていた法隆寺が、夕暮れになり静寂が戻りつつある情景を描いています。門前の茶店で奈良名物の御所柿を味わっていると、ゴーンと法隆寺の梵鐘が響き渡る。門前町の風景が浮かび上がる、日本文学の最高傑作とも言える作品です。

この俳句には今もなお議論が続く謎が存在します。具体的には、作者である子規が本当に法隆寺を訪れたのかという点です。

子規は、明治28年10月に奈良の老舗旅館「對山樓(たいざんろう)」に宿泊していました。これは宿帳から確認できます。「秋暮れる奈良の旅籠や柿の味」という句を残しています。「秋暮れる」ということは秋の夜でしょうか、旅館で柿を楽しんでいた時に鐘の音を聞いたことが伺えます。この旅館は東大寺と隣接しており、夜20時の鐘の音は今でも聞こえる距離にあります。この時、子規は28歳で、7年後に結核で亡くなりました。このとき彼は大量喀血して入院を終えたばかりでした。その状態で徒歩3時間以上かかる法隆寺までの往復は難しかったと推測されます。

その一月前のこと、夏目漱石が「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という俳句を詠んでいます。これもまた鐘の音が鳴り響くお寺の情景を詠んだ作品です。

子規の健康状態を考慮すると法隆寺まで直接足を運ぶのは難しい状況で、東大寺の風景や鐘の音からインスピレーションを得た俳句を創作しました。そして、漱石の俳句の要素を取り入れた子規が、俳句の最高傑作を生みだした可能性が考えられます。

漱石にしてみれば自分が詠んだ建長寺の句がオマージュされて、子規の句が有名になってしまった格好ですが、おそらく漱石はそのことをポジティブにとらえていたと思います。法隆寺の句が有名になったとき正岡子規はすでに亡くなってました。漱石と子規は同い年で東京大学の同級生で、この明治28年は愛媛県松山市で高校の英語教師をしている漱石の下宿を子規が訪ね一か月居候しています。漱石にしてみれば、今は亡き青春の仲間との思い出の作品だったのではと思います。

お寺の鐘しらべ管理人

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