夕暮れの法隆寺 ― 『柿食えば鐘が鳴るなり』の舞台を探る
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
知らない人はおそらくいないであろう有名な俳句。明治28年11月8日海南新聞に掲載された作品です。
昼間はたくさんの参拝客でとても賑わっていた法隆寺ですが、夕暮れになり静寂が戻りつつある情景を描いてるように感じました。門前の茶店で柿を食べながら古いお寺の雰囲気に浸っていると、ふと鐘がゴーンと聞こえてきた。一人一人、心の中にあるお寺の風景が浮かび上がる、日本文学の最高傑作とも言える作品です。
正岡子規が訪問した日に使われた梵鐘
この俳句には今もなお議論が続く謎が存在します。作者の正岡子規は本当に法隆寺を訪れたのか、聴いた鐘の音は東大寺ではないかという点です。結論から言うと、子規は法隆寺を訪れて茶店の俳句を詠みましたが鐘の音は登場しません。しかしその後、東大寺の鐘と柿をベースに法隆寺の句を上手いこと練り直したと考えられます。
子規は、明治28年10月に奈良の老舗旅館「對山樓(たいざんろう)」に宿泊していました。これは宿帳から確認できます。子規の直筆で「東京下谷区上根岸町八十二番地士族無職業正岡常規二十八年」、日付けは宿屋が明治28年10月24日と書き入れています。
東大寺の隣にあった旅館・對山楼
ここで奈良に至るまでの出来事をおさらいしてみます。
明治28年(子規28才)のとき日清戦争に記者として従軍した帰路の船内で血を吐き、結核に罹ります。(これが原因となり後に35才で亡くなります。)
明治28年5月14日、帰国するため佐渡国丸で大連から日本に向けて出発。船内で血を吐き体調を崩す。
5月22日 神戸病院に入院
7月23日 須磨保養院に移る
8月20日 退院して故郷松山へ
松山には3ヶ月滞在します。ここで大学の同級生、夏目漱石のアパートに3ヶ月居候します。名作「坊ちゃん」と名句を生み出した時期が重なったのは偶然ではなく、二人の天才がお互いを刺激し合い、毎晩のように文学論を積み重ねた経験が身を結んだと思います。この時点ではお互い無名の文学好き仲間です。子規が松山に居た期間中9月6日に漱石はこんな俳句を愛媛の海南新聞に投稿しています。
夏目漱石「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」明治28年9月6日
これもまた鐘の音が鳴り響くお寺の情景を詠んだ作品です。建長寺の質実剛健な国宝鐘が勢いよく響いて、銀杏の葉を散らす。漱石は前年の秋に建長寺のお隣の円覚寺で禅修行していました。そんな鎌倉を思い出して詠んだ俳句でしょう。子規は当然この俳句を知っていたし、証拠は有りませんが制作に関わったかもしれません。
10月19日 松山を出発、広島へ到着
10月21日 須磨の病院で検査
10月22日 大阪で腰痛になる
ここからさらに細かく振り返ります。
23日 大阪 花屋旅館泊
24日 大阪鉄道で奈良へ 對山楼泊 25日 柿を食べ、東大寺の鐘を聴く
26日 奈良から大阪へ
30日 東京へ戻る
子規が法隆寺へ行くとすれば、行き24日か帰り26日のどちらか大阪鉄道の法隆寺駅で途中下車すれば可能です。私ならば宿に到着する前に法隆寺へ寄りたい気分です。26日は土曜で混雑を予想して24日木曜が望ましい点もあります。全国果樹研究連合会は10月26日を「柿の日」としているので帰りに寄った説を採用してます。これは確定できる資料が今のところ見つかっていません。
子規は法隆寺でこんな句を詠みました。茶屋に行ったことは間違いないですが、法隆寺駅はお寺から12丁(1.5km)くらい距離があるので、汽車待つ駅から鐘は聴こえないはずです。
行く秋を雨に汽車待つ野茶屋哉
明治28年大阪鉄道名所案内(国立国会図書館デジタルコレクション000000427036)
奈良滞在について詳細な手記を残しています。要約すると
・腰が痛くて歩きづらいが体調はいい
・奈良散策でたくさんの柿を見た
・柿を主題にした作品はこれまで無い
・旅館で柿を注文した
・かわいい女性が柿をむいてくれた
・その女性は17歳くらいで月ヶ瀬村の出身
・柿を食べていると鐘が聞こえた
・その女性が東大寺の鐘を説明してくれた
・その女性が窓を開けて鐘を見せた
一目惚れした女性の描写に大半費やしています。この旅館で俳句を残しました。
秋暮る 奈良の旅籠や 柿の味
長き夜や 初夜の鐘撞く 東大寺
「秋暮れる」ということは秋の夜でしょうか、旅館で柿を楽しんでいた時に鐘の音を聞いたことが伺えます。對山楼は天平倶楽部というレストランとして営業を続けています。東大寺と隣接していて、今も夜20時の初夜の鐘を聞くことができます。
天平倶楽部の庭には柿の木が現存しています
子規は東大寺の鐘を聴いた10月25日からちょうど2週間後の11月8日に海南新聞に掲載されています。大阪に戻った10月27日〜29日のどこかで海南新聞に郵送したのでしょう。27日は日曜なので、28日の可能性が高く、仮に郵送に一週間要したとしても11月4日に到着して8日掲載という流れだと推測します。
ポイントをもう一度整理します。
・9月6日 漱石の俳句(建長寺の鐘)が海南新聞に掲載
・10月24日 法隆寺で茶屋の句を詠む
・10月25日 柿を食べ、東大寺の鐘を詠む
・10月28日 大阪で愛媛に郵送
・11月8日 子規の俳句(法隆寺の鐘)が海南新聞に掲載
法隆寺の有名な俳句は、柿の文化作品を作りたい子規が、東大寺の鐘と柿、法隆寺の茶屋、漱石の俳句を全て取り入れて、俳句の最高傑作を生みだしたのだと考えられます。
夏目漱石/近代日本人の肖像(国立国会図書館)
漱石にしてみれば二次創作された句がオリジナルを超えて有名になってしまった格好ですが、おそらく漱石はそのことをポジティブにとらえていたと思います。法隆寺の句が有名になったとき正岡子規はすでに亡くなってました。漱石と子規は同い年で東京大学の同級生。「坊ちゃん」を発表し、既に作家として成功した漱石にしてみれば、今は亡き青春の仲間との作品が大バズりした状況はむしろ誇らしかったのではないでしょうか。
お寺の鐘しらべ管理人
- 東京在住のサラリーマン
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