梵鐘単体の評価
京都・智積院:大書院の障壁画と「ありがた山の寒がらす」
智積院(ちしゃくいん)は、京都駅からほど近い東山七条エリアに位置し、三十三間堂や豊国神社といった歴史的名所にも近接しています。真言宗智山派の総本山として、全国に約3,000もの末寺を擁する一大宗派を支える寺院です。関東地方でも、成田山、川崎大師、高尾山、高幡不動といった有名な寺院を持つことで知られています。
大書院の壁面には有名な障壁画があります。豊臣秀吉ゆかりの美術作品です。淀君との間にできた息子で、わずか3歳で夭折した鶴松を弔うために建てられた祥雲寺が、後に智積院に吸収されました。
徳川家康公より寄贈された祥雲寺の客殿が基となった講堂
長谷川等伯の挑戦と大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
大書院と国宝の障壁画
この障壁画は、長谷川等伯とその息子・久蔵を中心とする一門が全力を注いで制作した作品群で、等伯が京都で受注した初の大規模な仕事でもありました。当時、狩野永徳が率いる狩野派が絵画界を席巻していた中、等伯は北陸から進出し、挑戦者としてこの仕事に挑んだのです。国宝6点、重要文化財1点で構成される障壁画は、400年以上の歴史の中で火災や盗難の困難を乗り越え、現代まで伝えられてきました。
ところで大書院と向かいの庭園は、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の第一話に登場しました。横浜流星さんが演じる蔦屋重三郎が吉原の窮地を救うためにアポなしで老中・田沼意次と直談判する重要な局面のロケ地となりました。「ありがた山の寒がらすにございます!」の名セリフはここから生まれました。偶然ですが上の写真を撮影したちょうどこの位置が、横浜流星さんが渡辺謙さんと対峙したポイントです。
梵鐘しらべ
時間 | 大晦日 23時40分から |
打数 | ー |
前捨て鐘 | ー |
実質 | ー |
後捨て鐘 | ー |
狩野派への挑戦-長谷川等伯と障壁画誕生
長谷川等伯は、生まれ故郷である石川県で絵師として活動していましたが、33歳の時、家族を連れて京都に上京します。当時の京都の絵画業界は、狩野永徳が率いる狩野派が長きにわたって君臨し、大きな仕事を独占していました。中でも狩野永徳は、その時代を代表する絵師として圧倒的な存在感を放っていました。このため、実力のある等伯であってもなかなか仕事を得ることができませんでした。
しかし、そんな中で等伯の才能を早くから見抜いていたのが千利休です。千利休との交流を通じ、等伯は徐々に仕事の機会を得るようになります。そしてついに、台頭した等伯は京都御所の障壁画の制作を任されることになりました。これを裏付ける記述として、公家である勧修寺晴豊の日記には次のような一文があります。「はせ川と申す者に描かせることにした」。
ところがこの決定に狩野永徳が反発します。永徳は息子や弟とともに抗議し、その決定を覆すことに成功しました。しかし偶然にも、この事件のわずか一月後、永徳は急逝してしまいます。狩野派の力が弱まる中、長谷川等伯が智積院の障壁画の制作を任されるのはその翌年のことでした。この受注は等伯にとって京都での本格的な成功を意味し、後に彼の代表作として歴史に名を刻むこととなりました。
梵鐘ものがたり
元和二年(1616年)の銘がある梵鐘
鐘楼と除夜の鐘
智積院の入口を入ってすぐ右手には、1667年(寛文7年)に建てられた鐘楼があります。この鐘楼は京都府の文化財に指定されており、400年以上の歴史を持つ貴重な建造物です。鐘楼に吊るされた梵鐘は、1616年(元和2年)8月に制作されたもので、その表面には智積院の由来が銘文として刻まれています。
この梵鐘は毎年の大晦日に「除夜の鐘」として撞かれます。2024年の大晦日には、多くの人が鐘を撞くために行列を作り、その厳かな響きが一年の終わりを告げていました。
アクセス
住所
京都府京都市東山区東瓦町964番地
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お寺の鐘しらべ管理人
- 東京在住のサラリーマン
- 梵鐘の愛好家
- 出張先や夜時間に梵活中
皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。
しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。
「お寺の鐘しらべ」では、梵鐘にまつわる文化や歴史を通して、鐘の魅力を発信しています。朝活やお仕事後のひとときに楽しめるプチ旅行の参考としてもご活用いただけます。
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