東京・烏山寺町:喜多川歌麿が眠る小京都

東京都世田谷区にある烏山寺町(からすやまてらまち)は、26の寺院が密集する独特の地域です。その落ち着いた風情から「東京の小京都」とも呼ばれています。(「東京の小京都」という表現、ちょっと面白いですよね。)

この寺町が形成されたのは、今からおよそ100年前。きっかけは、大正12年(1923年)の関東大震災でした。震災後の都市計画により、都内の寺院のいくつかが、広い土地を求めて郊外への移転を余儀なくされました。同様の寺町は、上高田(中野区)、梅里・松の木・高円寺(いずれも杉並区)などにも見られます。東京都が移転先をあっせんし、烏山寺町もその流れで誕生しました。

同じ時期、成城学園も新宿から現在の世田谷区成城に移転しています。お寺だけでなく、学校もまた、都市計画の中で新天地を求めていったのです。関東大震災で多くの寺院や学校が被災し、それを契機に「静かで広い土地」を目指した郊外移転が進み、こうして寺町や学園都市の風景が形成されていきました。

今回は、そんな烏山寺町の中から、代表的な3つのお寺をご紹介します。

【1】専光寺(せんこうじ)

もともとは浅草にあった浄土宗の寺院です。関東大震災で本堂を焼失し、昭和2年(1927年)に烏山寺町へ移転しました。しかし、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲では、再び焼夷弾の直撃を受け、本堂や多くの資料が失われました。

専光寺には、江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿の墓が残されています。現在NHK大河ドラマで注目を集める蔦屋重三郎の支援によって活躍した歌麿は、浅草の長屋に住んでいました。長屋の大家が専光寺の檀家だった縁で、歌麿は妹のために墓を建立し、後に自身もその墓に葬られたと伝えられています。

【2】称往院(しょうおういん)

浄土宗・知恩院を本山とする寺院で、慶長元年(1596年)に江戸・湯島で創建されました。境内には「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内(そばを打つことを禁ず)」と刻まれた石碑が残っています。

かつて境内には道光庵(どうこうあん)という庵があり、そこの僧侶は蕎麦打ちの名人でした。江戸中期、天明の大飢饉の際には、炊き出しとして蕎麦を振る舞い、その美味しさが大評判に。これにあやかり、町の蕎麦屋も「〇〇庵」と名乗る風習が広まったといわれています。現在でも蕎麦屋の店名に「庵」が多いのはこれに由来します。

しかし、あまりにも蕎麦が評判になりすぎたため、本来の寺の役割に支障が出る事態に。そこで「蕎麦禁止」の石碑が建立されました。昭和2年、称往院も烏山寺町へ移転しています。

【3】妙寿寺(みょうじゅじ)

寛永8年(1631年)、江戸・谷中に創建された日蓮宗の寺院です。後に、将軍家の菩提寺である寛永寺の火除地(ひよけち)に指定されたため、幕府の命令で墨田区へ移転しました。

境内には、享保4年(1719年)に鋳造された、約300年前の梵鐘が現存しています。この梵鐘には、関東大震災の際、隣接するガス会社からの大火によって受けた破損の跡が残されています。妙寿寺もまた、震災後に烏山寺町へ移転しました。

アクセス

住所

東京都世田谷区北烏山

お寺の鐘しらべ管理人

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