夕暮れの法隆寺 ― 『柿食えば鐘が鳴るなり』の舞台を探る
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。
明治28年11月8日付『海南新聞』に掲載されたこの俳句には、ひとつの謎があります

正岡子規は本当に法隆寺の鐘を聞いたのか?
それとも、東大寺の鐘だったのか?
結論から言えば、
子規は法隆寺を訪れている可能性は高いが、鐘を聞いたのは東大寺であることが、残された史料から最も合理的に説明できます。
1.「東大寺の鐘」については子規自身が明記している
明治28年10月25日の『子規日記』には次のように書かれています。
「柿を食ふ。鐘鳴るを聞く。女中これ東大寺の鐘なりと教ふ。」
さらに女中が窓を開け、鐘の方向を示したことまで記録されており、子規が東大寺の鐘を聞いたことは史料上ほぼ確定しています。法隆寺の俳句のベースになった句も残されています。
「秋暮る 奈良の旅籠や 柿の味」
「長き夜や 初夜の鐘撞く 東大寺」

2.子規は法隆寺に行ったのか?
ここが誤解されやすい点です。
子規日記には“法隆寺”という文字は一度も出てきません。しかし、法隆寺訪問が確実視される理由が存在します。
●理由1:子規句稿に法隆寺で詠んだ句が残る
「柿くふも 更けて淋しき 法隆寺」
「法隆寺 茶店に腰を おろしけり」
これは子規自身の作品として明確に確認できる資料(『子規句稿』)です。鐘には触れませんが、茶店で句を詠んだ事実そのものは動かない。
●理由2:子規が泊まった宿(對山楼)から、24日・26日のどちらでも途中下車で訪問可能

奈良到着の10月24日、または奈良発の26日。いずれも大阪鉄道・法隆寺駅を通るため、立ち寄りは現実的に可能。
→したがって、法隆寺訪問の“史実的可能性は高く、作品も残されているが、日記には法隆寺のことが書かれていない”という状態です。
3.では句はどう作られたのか?
子規が奈良で強い印象を持ったのは、旅館・對山楼で柿を食べながら聞いた東大寺の鐘でした。一方で、夕暮れの静けさが印象深い法隆寺では茶店で句を作るほど心に残している。
この二つの体験が、柿の味、東大寺の夜の鐘の余韻、法隆寺の静寂という象徴的舞台としてまとめ上げられた結果、『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』が誕生したと考えるのが自然ではないでしょうか。

そしてこの有名な俳句が誕生した物語にはもう一人の有名な文豪が関与しています。記事はこちらをご覧ください。漱石と子規の友情が生んだ日本文学の最高傑作
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