
梵鐘単体の評価
横浜・総持寺:掃除も修行。広大な境内に響く大梵鐘(市指定文化財)
横浜市鶴見区にある總持寺(そうじじ)は、曹洞宗の大本山のひとつ。元は石川県・能登半島にあった諸嶽寺を、瑩山禅師が1321年に總持寺と改称したことに始まります。以来570余年にわたり能登の地にあった總持寺ですが、明治31年(1898)の火災で伽藍の大半を焼失。復興と宗門の未来を見据えて、明治44年(1911)に現在の横浜・鶴見へと移転しました。

全長400メートルを雑巾がけ!?「掃除の總持寺」
總持寺の修行でとりわけ重視されるのが、掃除です。特に「百間廊下(ひゃっけんろうか)」と呼ばれる全長164メートルの長大な廊下はでの雑巾がけは有名で、だいたい朝8時頃と11時頃に見られます。この廊下を含めた約400メートルを、修行僧たちは毎日雑巾がけしています。
この日々の修行は「洒掃行(しゃそうぎょう)」と呼ばれ、掃除そのものが仏道の実践でもあるとされます。總持寺の「掃除」はダジャレではなく、れっきとした修行なのです。

仁王像のモデルは、あの大横綱─三門に秘められた物語
1969年に落成した總持寺の三門(さんもん)は、鉄筋コンクリート造りとしては日本一の大きさを誇ります。堂々たるこの門の左右には、金剛力士像(仁王像)が安置されています。
驚くべきことに、この仁王像のモデルとなったのは、当時15歳でまだ無名だった若き力士・北の湖でした。仁王像の製作を依頼された彫刻家がモデルを探して相撲部屋を訪ねた際、ひときわ目を引く体格の少年を見出し、モデルとして起用したといいます。
のちに北の湖は、大横綱として歴史に名を刻む存在となりました。その将来性を見抜いた彫刻家の眼力もまた、見事だったと言えるでしょう。

梵鐘しらべ

時間 | 午前11時 |
打数 | ー |
前捨て鐘 | ー |
実質 | ー |
後捨て鐘 | ー |
満州の杉原千畝 河村愛三のものがたり

總持寺の墓地には、ジャンルを超えた著名人たちが眠っています。アントニオ猪木、元首相の芦田均、俳優・石原裕次郎、日本建築の礎を築いた伊東忠太といった面々。それぞれの人々の記憶に残る足跡を残してきました。その中でも、ひときわ異彩を放つのが河村愛三(かわむら あいぞう)少佐です。
1938年、ナチス・ドイツによる迫害を逃れてきたユダヤ人が、ソ満国境のオトポール駅に足止めされました。入国を渋る満州国政府の対応のなか、河村少佐たちは即座に支援を開始。食糧や衣類、燃料を提供し、医療支援も手配しました。さらには、出国や移動の段取りまでを主導し、最終的には数千人規模のユダヤ人が救われたとされます。
同盟国ドイツへの配慮から彼の行動に反対する声も上がりましたが、関東軍参謀長であった東條英機に対し、毅然とこう述べたといわれています。
「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めをすることを、正しいと思われますか?」
外交と軍事が交錯する現場で、信念に基づき命を守る選択をした河村少佐。その行動は、外交官・杉原千畝の「命のビザ」と並び称されることもあります。
總持寺の墓所は、そうした人間の尊厳と信念が静かに眠る場所でもあります。多くの修行僧が日々祈りを捧げるこの大本山で、彼らの生き方に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
梵鐘ものがたり

朝のおつとめ、11時の鐘──總持寺で体感する禅のひととき
三門の東側、小高い丘の上に立つ鐘楼には、總持寺の大梵鐘が吊るされています。この鐘は大正2年(1913)に鋳造されたもので、関東最大級の規模を誇り、重さはなんと18トン。芸術性の高い作品としても知られ、平成7年(1995)には横浜市の指定文化財となりました。
この大梵鐘は、毎日11時になると修行僧によって撞かれます。禅寺ならではの力強く流れるような打鍾の所作、そして撞く前に唱えられる打鍾偈(だしょうげ)は、訪れる人の心を静かに打つひとときです。

アクセス
住所
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1−1
ホームページ
皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。
しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。
「お寺の鐘しらべ」では、梵鐘にまつわる文化や歴史を通して、鐘の魅力を発信しています。朝活やお仕事後のひとときに楽しめるプチ旅行の参考としてもご活用いただけます。
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