鎌倉・大船観音:車窓に浮かぶ白き祈りの姿

東海道線で大船駅に近づくと、山の中腹に突如あらわれる巨大な白い観音像。あの風景、覚えていませんか?

大船駅は都心から少し離れていて、頻繁に訪れる場所ではないかもしれません。それでも、通勤や旅行、ふとした移動の途中で「あれ、なんだろう」と目を奪われた経験のある方は多いと思います。優しい表情で町を見下ろすその姿は、一度見たら忘れられない「首都圏の記憶風景」のひとつかもしれません。

戦争と復興を越えて完成した観音像

この観音像が完成したのは1960年(昭和35年)のこと。しかし、その計画ははるか以前、1929年(昭和4年)にさかのぼります。当初は「護国観音」と名付けられ、国士舘大学の創設者・柴田德次郎が、不安定な国際情勢の中で観音思想を広め、日本人の心を一つにすることを願って着工されました。

当初は立像を予定していましたが、地盤の問題から胸像に変更されます。しかし1934年(昭和9年)、資金難で工事は中断。その後は戦争の激化により計画は宙に浮いてしまいます。

東急グループの支援と完成

戦後、東急グループの創業者である五島慶太がこの地の開発に着手し、観音公園と住宅開発の一環として観音像の建設が再開されました。そして、着工から実に30年以上を経た1960年、ついに現在の観音像が完成します。

運営を支えたのは、大船観音協会専務理事の五島昇でした。昭和46年には、總持寺の貫首が理事長に就任し、信仰の場としての整備が進みます。そして昭和54年、財団法人から宗教法人へと移行する決定がなされ、昭和56年には正式に「大船観音寺」として神奈川県から認証されました。大本山總持寺の直末寺となり、信仰の場としての歩みを本格化させたのです。

梵鐘しらべ

時間毎日正午
打数
前捨て鐘
実質
後捨て鐘

観音様と大仏様、二人は恋人?

「観音様と大仏様は付き合っているらしいよ」
そんな微笑ましいウワサが、昔から地元ではささやかれてきました。

大船観音は、鎌倉大仏の方を向くように作られた――そう語られることもしばしば。お寺の方も「よく聞かれるんですよ」と笑って教えてくれます。しかし実際に観音像のそばに立って目線の方向を追ってみると、どうやら視線の先は鎌倉よりも東、横須賀の方角のようです。

それでも、電車の窓から観音様を見ると、不思議と江ノ島方面を見つめているように感じる瞬間があります。まっ白な観音像の優しい表情と、圧倒的な大きさが、見る人の心にさまざまな物語を生むのかもしれません。

梵鐘ものがたり

高台から響く鐘の音

観音像へと続く参道の途中、左手には梵鐘が置かれています。これは昭和39年(1964年)4月、味の素株式会社三代目社長・鈴木三郎助氏の寄進によるもので、現在でも毎日正午の時を告げています。

高台にあるため、鐘の音は大船の街全体に届き、晴れた日には遠く富士山を望むこともあります。街の喧騒から少し離れたこの地で響く鐘の音は、訪れる人々の心に静かな余韻を残します。

アクセス

住所

神奈川県鎌倉市岡本1丁目5−3

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東海道線の車窓から姿を現す巨大な白衣観音像で知られる大船観音寺。戦前に着工し、戦争や資金難を乗り越えて1960年に完成しました。現在は曹洞宗の寺院として信仰を集め…

お寺の鐘しらべ管理人

  • 東京在住のサラリーマン
  • 梵鐘の愛好家
  • 出張先や夜時間に梵活中

皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。

しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。

「お寺の鐘しらべ」では、梵鐘にまつわる文化や歴史を通して、鐘の魅力を発信しています。朝活やお仕事後のひとときに楽しめるプチ旅行の参考としてもご活用いただけます。

一緒に梵鐘を巡る旅に出かけましょう!

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