
梵鐘単体の評価
奈良・宗円寺:日本の音風景を残すプロジェクト「鐘の音返し」
奈良県五條市(旧・西吉野村)の古刹、宗円寺を訪問しました。今回は、上田技研産業株式会社が進めるプロジェクト「鐘の音返し(かねのおんがえし)」の同行です。日本唯一の撞木メーカーである同社が取り組むもので、過疎化によって無住寺となり撞き手がいなくなったお寺の鐘に、自社開発の自動撞木システム(NAMシステム)を無償で設置する取り組みです。自動撞木システム(NAMシステム)が決まった時間にお寺の鐘を鳴らしてくれるので、宗円寺の鐘が響く音風景を未来に残すことができました。

300年以上の歴史を持つ地域密着のお寺
宗円寺は銀峯山の中腹にたたずむ浄土真宗本願寺派の末寺です。本尊の阿弥陀如来立像には、第14世宗主・寂如が宝永七年(1710年)2月9日に記した裏書が残されています。300年以上の歴史を持つ古刹ですが、近年は無住となっています。しかし、このお寺を愛する地元の人たちの協力で本堂やお堂、梵鐘はとてもきれいに残されています。

旧梵鐘は太平洋戦争中に供出されました。終戦から約30年間、梵鐘が無い時期が続いたため、鐘の音を知らない子供もいたといいます。そんな中、地域の人々が資金を出し合って梵鐘を設置する計画を立て、昭和44年(1969年)4月に約二百貫(750kg)の大きな梵鐘が完成しました。当日を知る方にお話を伺うと、天候に恵まれ、多くの人が集まり、隣接する小学校からは5発の花火が打ち上げられたそうです。鐘が戻る喜びを地域全体で分かち合った、思い出の時間が目に浮かぶようでした。
今回のプロジェクト第一号にも地元の方が集まってくれました。設置作業を見守った人数は当時ほど多くはありませんが、地域に再び鐘の音が響くという期待と喜びの思いは、半世紀前から変わらず受け継がれていると感じました。鐘の音が復活する瞬間を楽しみに、作業を見守って頂きました。

梵鐘しらべ

時間 | 毎日正午、夕方5時 |
打数 | 6打 |
前捨て鐘 | ー |
実質 | ー |
後捨て鐘 | ー |
直木賞文学の原点、尋常小学校での教員生活

宗円寺に隣接する小学校はすでに廃校となっていますが、かつて奥谷尋常小学校には、直木賞で知られる作家・直木三十五が代用教員として赴任していました。
直木の自伝によると、受験に失敗した後、タニマチ薄恕一の紹介で小学校の代用教員となり大和国吉野郡に赴任しました。五條駅から山へ三里半入った山の中腹にある学校で、月給は十一円五十銭。担当は3・4年生の複式学級で、生徒はあわせて44名でした。
1989年に発行された雑誌『大衆文学研究』には、当時の教え子である岡田ルミ子さんのインタビューが残されています。それによれば、直木(本名・植村宗一)はヤマモモの木の下で授業を行ったり、木登りを一緒にしたりと、楽しい先生だったそうです。明治43年(1910年)11月から翌年3月までの短期間ではありましたが、生徒の記憶に強く残る存在だったことが伝わってきます。なお、校庭のヤマモモの木は、現在奈良県教育委員会指定の天然記念物となっています。
梵鐘ものがたり

上田技研の挑戦と恩返し
「鐘の音返し」は、中村雨紅の童謡『夕やけこやけ』に描かれたような、すばらしい日本の音風景を取り戻す試みです。近年は過疎化による人手不足や近隣への騒音問題などから、お寺の鐘の音が響く風景は急速に失われています。上田技研産業株式会社は日本唯一の撞木メーカーとして梵鐘とともに歩んできました。今回はその第一号として宗円寺にNAMシステムが設置されました。この地でいつでも鐘の音が響き、地域の活性化や人々の心の安らぎにつながることを願っています。さらに、お寺が無住となり人の営みが途絶えると、農作物への食害や、クマやイノシシによる人への危害のリスクが高まります。近年は里山のクマによる人的被害が相次いで報じられていますが、鐘の音が響き続けることで、害獣を遠ざけ人々の暮らしを守る効果も期待されています。

アクセス
住所
奈良県五條市西吉野町奥谷1069
ホームページ
皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。
しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。
「お寺の鐘しらべ」では、梵鐘にまつわる文化や歴史を通して、鐘の魅力を発信しています。朝活やお仕事後のひとときに楽しめるプチ旅行の参考としてもご活用いただけます。
一緒に梵鐘を巡る旅に出かけましょう!