平安時代の梵鐘空白期間について(後期)

平安時代には、梵鐘の制作が止まった「空白期間」と呼ばれる時期が二度ありました。
- 前期: 榮山寺の梵鐘(917年)から平等院の梵鐘(1052年)までの135年間
- 後期: 平等院の梵鐘(1052年)から金峯山寺の梵鐘(1160年)までの108年間
前期についての詳しい解説は別記事をご覧ください。本稿では後期を中心に、その背景や歴史的文脈を紐解いていきます。平安時代の梵鐘空白期間について(前期)
世界遺産・金峯山寺の梵鐘
金峯山寺は奈良県吉野町に位置する世界文化遺産で、和歌山の熊野三山へと続く「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」の起点として知られています。この寺は修験道の中心地であり、多くの山伏たちが険しい道を進む修行の拠点となってきました。

金峯山寺を出発した修験者たちは、最初のポイントである水分神社に立ち寄ります。ここには、1160年に平清盛の父・忠盛が寄進した梵鐘があります。これは武士が制作に関わった最初の梵鐘として、平等院の時代まで貴族の支援で作られてきた梵鐘とは一線を画します。梵鐘の表面には四区画の独立した文様が施されていて、後に鎌倉時代の梵鐘に見られるデザインの原型となりました。

「平清盛 中村歌右衛門」(早稲田大学文化資源データベース 100-3858)
平家が金峯山寺を選んだ理由
金峯山寺が平家による梵鐘の寄進場所として選ばれた理由にはいくつかありそうです。金峯山寺は、藤原道長が娘・彰子の安産を祈願した地として知られています。この祈願が成就し、彰子が皇太子を出産したことで、藤原家は栄華を極める契機を得ました。源氏との争いに勝利し、栄華を極める平清盛とよく似た状況です。

金峯山寺の本堂・蔵王堂
平氏の台頭と梵鐘制作の変革
1160年は保元・平治の乱が終わり、源頼朝が伊豆へと流刑になった時期です。この金峯山寺の梵鐘を寄進した平忠盛は、平清盛の父であり、平家の権力基盤を築いた人物です。この梵鐘が象徴するのは、平安末期における貴族時代の終焉と、武士の時代の幕開けです。

海北友雪《源平合戦図屏風》東京富士美術館蔵
それ以前、梵鐘は貴族社会の文化の一部であり、その制作は貴族やその支援を受けた寺院によって行われてきました。1052年の平等院の梵鐘は、貴族の繁栄を示す最後の遺物になりました。しかしその後、金峯山寺の梵鐘が登場する1160年までの間、梵鐘制作の伝統はいったん途絶えます。この期間は、武士社会の形成と貴族社会の衰退という転換が背景にありました。
空白期後期の理由と源氏供養
平氏の梵鐘が金峯山寺に作られたもう一つ重要な理由として「源氏の供養」があります。
平氏は貴族社会の対立や政争の中で源氏を排除し、その過程で多くの源氏一族が犠牲になりました。しかし、源氏と平氏がかつて協力し合った時代があったこともまた事実です。平忠盛が源氏に対する供養の意を込めて梵鐘を寄進したことは、この歴史的背景に基づくものと言えるでしょう。

源氏物語図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
歴史を遡ると、藤原道長の時代にも源氏一族が政争の道具として利用され、その後排除された例があります。源高明、源融、源光、在原業平など。これらの人物は全て光源氏のモデルと言われています。この犠牲の記憶を物語として供養したものが『源氏物語』誕生の背景にあります。同様に、金峯山寺の梵鐘は合戦で犠牲になった源氏への供養であり、また新しい武士の時代の到来を告げるものであったのかもしれません。
梵鐘が映す時代の変遷
梵鐘制作の歴史は、時代の流れを如実に反映しています。1052年の平等院の梵鐘は貴族社会の象徴でしたが、その後の空白期を経て登場した1160年の金峯山寺の梵鐘は、武士が中心となる新しい時代を示唆するものです。後期の空白期間が生じた背景には、この移行期における社会的・文化的な変革があったと考えられるのです。

北条時宗が寄進した鎌倉・円覚寺の梵鐘(国宝)
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