平安時代の梵鐘空白期間について(前期)
古代日本では奈良時代までに作られた梵鐘が16個現存しています。その頃は鐘に銘文を入れることが少なく、75%にあたる12個が無銘鐘です。そのうちいくつかは奈良時代より前の白鳳時代や飛鳥時代の可能性もあると言われています。平安京ができた794年から壇ノ浦で平氏が滅亡した1185年の間、口径が一尺(30センチ)以上の梵鐘で現存するものは20個が確認できます。そのうち銘文がある12個については製作年が特定されています。無銘の8個についても文書の記録等でおよその製作時期が推定されています。
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現存最古と推定される當麻寺の梵鐘(国宝)
梵鐘界隈でささやかれる空白期間
とても狭い世界のハナシで恐縮ですが(笑)、平安時代にはひとつ未解決の問題があります。西暦700年ごろから始まった日本の梵鐘作りですが、平安時代(794年~1185年)に200年以上の空白期が存在します。口径が一尺(30センチ)以上の梵鐘で現存するものは、平安時代400年間で20個が確認できます。だいたい20年で1つのペースです。50年間隔で製作時期を一覧にしてみるとこんな感じです。無銘の鐘は推定年です。
有銘 | 無銘 | |
794年~850年 | 西光寺(福岡) | 国分寺(香川)、唐招提寺(奈良)、国分寺(愛知) |
851年~900年 | 大雲寺(京都)、神護寺(京都)、榮山寺(京都) | 石山寺(滋賀)、勝林院(京都)、善徳寺(滋賀) |
901年~950年 | ||
951年~1000年 | ||
1001年~1050年 | ||
1051年~1100年 | 平等院(京都) | |
1101年~1150年 | ||
1151年~1185年 | 金峯山寺(奈良)、玉置神社(奈良)、徳照寺(兵庫)、西本願寺(京都)、泉福寺(和歌山)、大聖院(広島)、鰐淵寺(島根)、岡寺(静岡) | 報恩寺(京都) |
梵鐘製造の技術はどうやって継承した?
上の表を見ると榮山寺(917年)から金峯山寺(1160年)の243年間は、ひとつの例外を除いて、完全な空白期間ということが分かります。梵鐘は金属を高温で溶かして、それを型に流し込んで作る鋳造という方法で作ります。鋳造は現代でも難しい技術です。平安時代ですから製造マニュアルも無い状況で、数百年のブランクがありながら技術を継承できたことは興味深い事実です。平等院の梵鐘を作る時、おそらく日本には製造経験者が全くいない状況でした。朝鮮半島や中国の技術者を呼んで作ったのかもしれません。
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聖徳太子絵伝断簡:高句麗から渡来した僧・恵慈と聖徳太子(東京国立博物館 A-12208)
榮山寺から平等院までの空白期間は136年
まず、平等院の梵鐘が登場するまでの空白期間について考えてみます。その前に作られた梵鐘は榮山寺917年まで遡ります。平等院の鐘は銘文が刻まれていないので製作年を推定するしかありません。諸説ありますが、藤原頼道が鳳凰堂を建てた1053年あたりが妥当と考えています。そうすると917年から1053年までの136年間、日本では梵鐘が作られなかったことになります。
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空白期間に対する2つの説
この空白には主に二つの説があるようです。
- 銅などの材料が枯渇した。梵鐘と同じように銅貨の製造も途絶えた。
- 大陸を模倣した梵鐘作りが定着しなかった。鎌倉時代に武士の文化として再開する。
物事の理由には色んな要素が絡んでくるので、これら①②ともある程度は説明できていると思います。しかしまあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、いずれも決め手に欠ける印象です。
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708年に初めて鋳造された和同開珎(京都国立博物館 J甲252)
榮山寺の梵鐘を振り返る
空白期の起点となった榮山寺の梵鐘とは何だったのか?『榮山寺の梵鐘と菅原道真の秘密に迫る』で長々と書きましたが、菅原道真の怨霊を抑えるための呪物的意味合いを持って作られました。しかしその後も怨霊の勢いは止まらず藤原家は多くの犠牲を強いられました。もちろん私自身が怨霊を信じている訳ではなく、当時の人々は偶然に起きた不幸の連鎖をタタリのせいと考えていたであろうということです。現代でも悪いことが重なるとおはらいに行こうとするのと同じです。
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917年に作られた榮山寺の梵鐘(国宝)
136年の空白期間は怨霊対策だった
当たり前ですが榮山寺の梵鐘は呪物として役に立ちませんでした。その当時の藤原氏を中心とした朝廷にとって道真怨霊対策は国家の最優先事項だったと考えられます。道真に対しては大臣の位を死後贈与したり、天満宮を整備したり、次々と手を打ちました。藤原道長の陰陽道で知られる安倍晴明梵鐘は榮山寺を最後に、新たなものは製造がストップされました。榮山寺の鐘は道真が制作に関与した遺品と言っていい品物です。そこから新たな梵鐘を作ったりすれば、道真がまた怒るかもしれない。少なくとも道真の怨霊が完全に鎮まるまでは当面梵鐘の製造はやめておこう。こんな背景から136年の空白期間が生まれたと私は考えています。
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安倍晴明も京都の怨霊対策で活躍した
とびきりアートな平等院の梵鐘
136年の空白期間は平等院梵鐘の出現によって終わります。この梵鐘もまた謎が多い代物です。梵鐘を美術工芸品として見た場合、平等院のものはひときわ芸術的評価が高い代物です。国宝の三大梵鐘は「銘の神護寺、音の妙心寺、姿の平等院」などと表現されます。美術センスに欠ける私でも平等院の梵鐘が技巧を凝らした美術品であることは分かります。同時に、仏具である梵鐘としてはとても異質な印象を持ちます。鐘の表面全面に飛翔する天人と唐獅子が描かれていてアート要素が非常に強い作品です。梵鐘に描かれた天人と唐獅子は朝鮮文化を思わせるデザインになっています。
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天人と唐獅子が描かれた平等院の梵鐘(国宝)
平等院は道長が別荘として使っていた邸宅を、頼通がお寺として改装したものです。道長・頼通の時代になり、藤原北家はついに菅原道真の呪縛から解き放たれました。榮山寺の梵鐘が作られた頃は怨霊と化した道真ですが、死後150年の時を経てようやく成仏し、天国で穏やかに暮らす様子をデザインしたのではないでしょうか。ただし136年間の空白で製造技術は失われたため、朝鮮半島の技術者に協力を求めたことでしょう。デザインが朝鮮風なのはそういう背景があったと思います。
皆さんお寺で鐘を鳴らした経験があると思います。お寺の鐘、梵鐘(ぼんしょう)はとても身近な文化です。それぞれの寺や地域の歴史を反映し、豊富なバリエーションが存在します。
しかし最近では騒音問題や人手不足により、その文化は急速に失われつつあります。日々の生活や街の風景が変わる中で、鐘の音は変わらない唯一の文化遺産です。
「お寺の鐘しらべ」では、梵鐘にまつわる文化や歴史を通して、鐘の魅力を発信しています。朝活やお仕事後のひとときに楽しめるプチ旅行の参考としてもご活用いただけます。
一緒に梵鐘を巡る旅に出かけましょう!